ローカルから世界へ①徳持耕一郎
2019年12月14日(土)、鳥取大学で開催された徳持耕一朗氏の作品展とトークイベント「ローカルからイノベーターになること」を訪れた。徳持氏は、ジャズミュージシャンを鉄の「線」であらわす「鉄筋彫刻」で有名だが、「鉄筋彫刻」に至るまでに、約10年間は版画をメインに活動され、ニューヨークで個展も開かれていたことなどを今回初めて知った。
鳥取というローカルな場から、多彩な活動を展開する徳持耕一朗氏。ローカルから世界へつながる力の源は何なのか、探ってみたい。
トークイベント「ローカルからイノベーターになること」では、鳥取大学時代(1979年に中退)を起点に「活動40年」として、徳持氏の少年期のアート初体験から、鳥取大学を中退し、美術の専門学校で版画を学び、30代でニューヨークでの個展を行い、その後 地元鳥取に戻り、「鉄筋彫刻」という表現に至って活動する現在までを、赤裸々に、そして思い出を懐かしむように語っていただいた。
鳥取というローカルな場から、単なるアーティストでななく、イノベーター(革新者)となる、とはどういうことなのか、トークイベントでのお話で印象深かったところを紹介する。
印象深かったのは、大学時代の生活。建築に興味があったが希望の進路先ではなく地元の国立大学工学部へ入学し、徳持氏いわく「ぬるま湯に浸かっているような心地よさと心地悪さ」を感じながら過ごした3年間。美術を専門に学ぶ美術専門の学生たちの話には全くついて行けず、劣等感を感じ図書館で本を読みあさったりする一方、当時の鳥取のタウン誌『スペース』で表紙デザインや記事掲載など、自分の表現をすでに積極的に発信していた徳持氏。『スペース』に関わっていたのは「勉学以外のどこに力を注いでいいのか」わからなかったからと話しておられたが、自分のもやもやする感情の表現を探っておられたのではないかと、そしてそれを発信できる場があったからこそ、次の決断にもつながっていったのではないかと感じた。
その後、徳持氏は鳥取大学を3年間で中退し、創形美術学校 版画科へ進む。そこは、高卒で入学してくる者もいれば、美大の入試を2浪3浪して入ってくる者もいる。年齢の面で引け目を感じることはなかったが、自分自身のデッサン力は、美大を目指していた者と比較すると到底 太刀打ちできない。美術学校へ通う傍らクロッキーの研究所へも通うようになる。今で言うダブルスクールだが、美術学校をそっちのけでクロッキーの研究所へ通うこともあったそうだ。そして、同級生たちに勝つためには「本物を見るしかない!」と決意し、夏休みに1ヶ月のヨーロッパの行きを決行する。このヨーロッパ巡りのことは、『スペース』に掲載されているそうだ。ご本人はこの『スペース』掲載のことをすっかり忘れておられたが、自分の経験したことをまとめ、発信する場が自然と開かれていたことが、よかったと思う。そして、それが現代のインスタグラムなどのSNSという形でなく、鳥取のみで流通するローカルなタウン誌であったことが興味深い。
美術学校卒業後(1982年 25歳)、デザイン会社に就職するも、1989年、32歳の時にニューヨークでの個展の話があり、1週間の個展開催のために、会社を辞める。その時の個展では版画を展示し、自分の作品の売り込みにも奔走するが、ニューヨーク在住でないこと、自分の作品がまだ他者の模倣の域をでていなかったことから、3週間のニューヨーク滞在後は、ふるさと鳥取に戻る。ニューヨーク滞在中に聴いたジャズ、そしてその場にあったナプキンに描いたドローイングが、徳持氏と「線」との出会いだった。クロッキーの研究所に通っていたころを思い出すような、限られた時間で対象を描く行為が、その後の「鉄筋彫刻」の特徴ある表現につながっていく。その特徴とは、線と線がつながっていないこと、線でありながら3次元の表現であることなどが挙げられる。
その後、「鉄筋彫刻」をはじめておこなったのは、1993年の県民文化会館のこけら落としでの展示。版画の展示だけではスペースに余裕があり、その空間を埋めるために、鉄加工のできる友人に依頼したのがきっかけだったらしい。友人に作ってもらったのが最初だったのには驚いたが、これも地元に帰ってきたからこその縁があったのではないかと思った。
「鉄筋彫刻」という表現に出会ったのちはチラシの活動紹介にもあるように、「鳥取という地方都市を拠点にしながらも、国内外で展覧会を開催し、エディ・ゴメス・トリオのCDジャケット制作やウォルト・ディズニー社との仕事など、その活動は国際的に注目を集めてい」る。次なる徳持氏の目標は、鳥取からニューヨーク、デトロイト(ジャズの盛んな街)での活動だそうだ。
●ローカルだからこそできたこと
・タウン誌『スペース』への掲載活動
・実験的なことを自宅からすぐにやる。
・メディア戦略:メディアを試す
(ローカルの取材が、鳥取以外で放映されたり、深夜の英語放送に使われたりした)
●“ローカルでやること”自体が力の源
・鳥取から直接(=東京を経由することなく)世界へ
・「鳥取にこだわって創作することが重要だと思っているから、こうして活動が続いている」
・「ローカルを軽視しないで、都会の情報にまみれないオリジナルを、自分の勉強を熟成」させることができる
《世界で通用する人になるために》
ローカルから世界へ発信する力
ニューヨークの個展で衝撃だったことの一つに、「Who are you?」がある。これは単に「あなたは誰?」という問いではなく、「おまえは何者か。」「おまえは何でメシを食っているのか。」「おまえは何に命を張ってやっているのか。」を説明せよということだった。自分の立ち位置(自分の作品を構成する事柄)について、英語で他者に説明できなければ、アーティストとして相手にされなかった。
徳持氏から聞き手へのメッセージとして、「自分の専門から自分の位置を確認し、自分の進む方向を考えてみてほしい。自分に関する組織図をつくる、マッピングする、その整理の仕方が大切である。」という言葉があった。
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