「限界集落」はなにが限界なのか

「限界集落」という言葉を一時期ほど聞かなくなりました。今は、中山間地域や高齢化が進む集落といった表現が使われることが多いように思います。
このサイトは、「限界集落」という言葉をあえて使用しています。「限界集落」という一種センセーショナルで、とっつきやすい言葉を安易に使用してきた歴史も含めて、限界を超えたいからです。

この記事では、「限界集落」という言葉はそもそも経緯で生まれた言葉なのか。そして、どのような状態を「限界集落」と呼ぶのか。少し紐解いてみます(^^)
参考としたのは、以下のブックレット↓↓↓↓↓
小田切徳美『農山村再生 「限界集落」問題を超えて』(岩波ブックレットNo.768、2009年10月初版)

書店やネットなどで簡単かつ安価に買い求めることができます。
タイトルの内容を大きく4つに章立てし、簡潔に説明しているので、手に取りやすかった一冊です。中身はレポートの抜粋を読んでいるようで少し小難しかったですが、以下に内容を要約してみます・・・↓↓

「限界集落」という言葉は、大野晃という社会学者による造語。大野氏が1990年代初頭の論文内にて、高知県の山村集落の実態調査によりながら、その集落で生まれつつある諸問題を総称して、独自の学術用語として作った。いち社会学者の造語「限界集落」は、マスコミが好んで使う一般用語となった。

「限界集落」の定義は以下の通りである↓↓↓
 65歳以上の人口が半数を超え、(=高齢化率50%以上)「人の空洞化」
 高齢化で集落の自治機能が急速に低下し、「むらの空洞化」
 社会的共同生活の維持が困難な状態になる集落 「限界集落と化す」

上に引用した図は同ブックレットの3章「限界集落」問題への対応(P48)に掲載されているものである。そして、同じ章の中で小田切氏は次のように語っている。(下線は引用者によるもの)

●同じ高齢化率50%以上の集落であっても、子ども世代が近くに住む地域と、遠隔地に流出する傾向がある地域とでは、集落機能の実態や将来展望は大きく相違する。また、豪雪などの自然条件や地理的条件によって、大きな差があることも容易に予想される。むしろ、「限界集落」の析出に関しては、指標の取り方やその水準は地域によって異なるべきものであろう。したがって、この単一の指標による画一的な「限界集落」規定が全国に拡がり、また特に自治体関係者がなんの疑問もなくこの指標を利用していることには、強い違和感を覚えざるを得ない。

●最近では「限界集落」という言葉が持つあまりに強い響きに対する違和感が各所で表明されている。(中略)「限界集落」という表現を、例えば山口県では「小規模・高齢化集落」と呼び換え、長野県下伊那地方事務所はより積極的に「生涯現役集落」を提案する。

確かに、私も「限界集落」という言葉そのものに「限界」を感じている。しかし、だからこそ、この言葉のもつマイナスなイメージを払拭すべく、あえて「限界集落」という言葉を用いて、この言葉の「限界」を超えてみたい。

高齢化が進み、集落(むら)の自治機能(例えば、定期的な寄り合い、住民総出で行っていた草刈りやゴミ拾いなどの集落の維持活動、農業での助け合い、季節ごとの行事、など)が機能しなくなり、集落の家同士のつながりが断たれ、やがて高齢者が孤独死し、相続されなかった家屋や田畑が空き家や耕作放棄地として残り、管理がなされぬまま荒れていく・・・その連鎖がつづけば集落は確実に消滅する。しかし、このプロセスのどこか一箇所だけでも異なる方向へ進めば、「限界」を超えられる。私は、「限界集落」だからこそ見いだせる新しい集落の形があるように思えてならない。その形はまだ具体的には見えてこないけど・・・


だからこそ、私は集落に置き去りにしている空き家2軒を通して、その新しい形を見つけてみたいと思ったのかもしれない。

Tottori 空き家活用の模索者

鳥取県の2件の空き家の管理運用を模索しています。今のところ、家族に空き家を手放す気持ちはなく、時々そうじに行っていますが、人の住む予定もなく… 私設図書室、または地域の集会所のような形にできないかと妄想中です… 空き家があるのはともに限界集落。空き家から考える 地域のミライ を記事にしていけたらと思います(^^)

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